このページではJavaScriptを使用しています。

ロゴ

本棚へ戻る


  • 目次

僕は、『知恵の木』から空を見上げた。
晴れた空には、綿のような白い雲。
今日も、昨日も、一昨日も。
僕の見上げる空は晴れている。
たぶん、明日も晴れて。
明後日も、明々後日も晴れるだろう。

「だって、作り物の空だからね……」

そう。
僕の見上げるこの空は、作り物だ。
ここは地下にある特殊なドームだから、青い白い空も雲もただの映像なんだ。

「雪や雨にする気象変化機能も<EDEN>にはちゃんとあるって博士は言ってたけど、僕が来てから博士は一度も使ってないし。雪は嫌だけど、雨はけっこう好きなんだけどな~」

<EDEN>は、あの有名なヤハウェ・エロヒム博士が私有地の地下に造った広大な庭園だ。
僕はここに来る前は首都エレバンで、考古学者の父親の助手をして暮らしていた。
ある日、ヤハウェ・エロヒム博士から父に手紙が来た。
紙の手紙だった。
手紙は庶民には縁遠い贅沢な通信手段だから、僕はそれはもう驚いた。
手紙なんて見たことも触ったことも無かった僕の前で、父さんはヤハウェ・エロヒム博士の手紙を開封し、読んで……。
そこに書いてあったのは、「息子を貸せ」という一文。
それだけだった。
僕は嫌だと言ったけれど、父さんは嫌だとは言ってくれなかった。
恩師であるヤハウェ・エロヒム博士を父さんは崇拝していたから「博士のもとに行け」と嫌がる僕を強引に家から追い出した。
で、僕の職場は半年前から<EDEN>になったわけだ。

“特殊な職場”に、初めの頃は戸惑い以上の嫌悪を感じていた僕だけど。
今は僕にとってこの職は天職であり、この職場は楽園だ。
楽園……まさに“エデン”だ。
だって、僕はここで出会ったんだ!
僕の『運命』に!!

「おはよう!」

僕の『運命』。
大好きなあの子は、今日も僕の元へとやって来た。
この子が僕には無い2本の足を使って歩く姿は、とっても素敵だ。
この子が僕には無い2本の腕でぎゅってしてくれると、すごく幸せな気分になれるんだ。

「おはよう! いらっしゃい、イブ」

<EDEN>の監視官の職に就いた僕が住まいにしているのは、職場……<EDEN>にある『知恵の樹』だった。
果樹の多いこの<EDEN>の中でも、ひときわ目立つ立派な大きな林檎の木だ。

「早くおりてきて! 一緒にイチジクを食べにいきましょ!」

木の枝に身体を巻きつけている僕を見上げて、イブが言った。

「うん」

僕が幹を這って地面に移動すると、待ちかねたようにイブが抱きついてきた。
イブは2本の細い腕で、僕の身体をぎゅっぎゅっと抱きしめる。
あぁ、この子の肌は……なんて軟らかい肌と肉だろう!
鱗に覆われた僕とはぜんぜん違う!
イブに触れられると気持ち良くて、僕は、僕はっ…………うう、尾の先端がぷるぷる震えてしまうよ!

「昨日はどうしていなかったの!? あなたがいなかったから、イブは一人でご飯を食べたんだよ!? すっごくさびしくて、泣いちゃったんだからね!?」

あ。
そうだった。
昨日はヤハウェ・エロヒム博士から、緊急呼び出しがあったから。
毎日僕に会いにきてくれるイブのことが気になったけれど、ヤハウェ・エロヒム博士は<EDEN>の【主】だから逆らえなくて……いつもは呼び出されるのはイブの寝ている深夜だから、僕が『知恵の樹』に“いない”なんてなかった。
昨日は本当に緊急で、それほど特別な呼び出しだったんだ。
でも……僕に会えなくてイブが泣いたなんて!
それって、それって……ぶっちゃけると…………嬉しい、すっごい嬉しい!!

「泣いちゃったのかい!? ごめんね、イブ。僕が悪かった。とても反省してる……許してくれるかい?」

内心浮かれてる僕だけど、それを声に出さないように気をつけて……注意するのは声音だけ。
表情は特に作らなくても、大丈夫。
だって僕は、蛇なんだから。
イブのようには表情が豊かにならないし、なれない。

「そうね、一緒にお昼寝してくれたら許してあげる! ふふ、あなたが枕になってね?」

ぷうっと膨らんでいた頬が、笑顔へと変わる。
お日様みたいな笑顔がまぶしくて、僕は目を細めてしまう。
あぁ、イブ。
君はなんて可愛いんだろう!
君に出会えたこの奇跡を、僕は感謝しているんだ。
ヤハウェ・エロヒム博士、ありがとう!
そう、僕は貴方に本当に感謝している。
博士が、ヤハウェ・エロヒム博士は深い深いところにあった遺跡から、君の『卵』を見つけた。
古代遺跡から、君の卵を見つけて“孵化”させてくれたんだ!
博士は僕にいろいろ教えてくれた。
僕の生まれた惑星アララトが、太古はアースって呼ばれていたことや、僕等がまだ爬虫類として未熟で、文明を持たず生きていた<暗黒期>が存在することも……。

「うん、枕にでも布団にでもなんでもなるよ! あ、そうだ!」

イブ。
僕の可愛い人。
ヤハウェ・エロヒム博士が古代遺跡で発見したのは、君の『卵』だけじゃなかったんだってことを、昨日博士に聞いて、僕は知ったんだ。
『卵』はもうひとつあって、博士はそれに<アダム>って名をつけて育てていて……君のように順調に育たなくて苦労したけど、育成機から出せるほど成長したって教えてくれた。

「ねぇ、イブ」
「なあに?」

ヤハウェ・エロヒム博士は、絶滅した古代種である<人間>研究の第一人者だ。
博士は昨日、博士は僕に言った……“ヤハウェ・エロヒムは<人間>の神になる”のだと。

「イブは林檎が好きだよね?」
「うん、好きよ!」

博士は僕と同じ蛇族なのに、<神>になる?
大型種の僕よりずっと小さく、脳は優秀だけど毒だって持ってない弱い個体のクセに<神>だって?

ーーイブは唯一の同種であるアダムを愛し、アダムもイブを愛するだろう。

……なに言ってるんだ!
愛するって、なんだよ!?
イブがアダムを愛する!?
あの爺……ふざけやがって、ふざけやがって!!

「いちじくを食べに行く前に」

イブを、僕のイブを。
育成機にいる<アダム>と繁殖させるだなんて言いやがって!!!

「これを、僕の木の林檎を食べなよ」

許せない!
だって、僕はイブが大好きなんだから!

「いいの? この木の果物は毒があるから、食べちゃいけないって神様が言ってたのに」

僕は。
イブ、僕は君が好きなんだ!
アダムなんかに、君をとられたくない!

「毒なんて嘘だよ。あんまり美味しい林檎だから、“神様”が独り占めしてたんだ。君に隠れて、“神様”がこっそり食べてたんだよ」
「えぇ~!? そうなの!? 神様ったら、ずるいっ~……で、でも。あたしが食べたのが神様にばれたら、怒られるから食べれない……」

嘘つきな君の“神様”は、いま何処にいると思う!?
君の“神様”は、僕の胃の中だ!

「大丈夫。これからは君は好きに食べていいんだって、“神様”が言っていたよ?」
「ほんと?」
「うん。君がいい子にしていたからご褒美らしいよ?」

ヤハウェ・エロヒム博士が、<EDEN>の所有者がいなくとも。
中央にある『生命の樹』にここを維持管理する人工知能があるから、“神様”がいなくとも<EDEN>は変わらない。
“神様”がいなくとも、ここは<楽園>のままだ。

「さぁ、どうぞ」

僕は胴を上げ、首を伸ばし舌を使って『知恵の木』から林檎をひとつもぎ取り。

「あ、ありがとう!」

差し出されたイブの手に、そっとそれを置いた。

「真っ赤で綺麗で。美味しそうね!」
「うん、きっととっても美味しいよ? ほら、食べてごらんよ」

博士がイブにこの林檎を与えてなかったのは、この林檎に成長抑制効果があったからだ。
アダムの育成が予定より遅れていたため、いざとなったらイブの成長を止めて“待たせる”ためだったんだろう。

「うん。……わぁ、甘酸っぱくて、すごく美味しい!」

イブはニコニコと笑いながら、白い歯で何度も真っ赤な林檎に齧りつき、それを食べた。

「さぁ、立ってないで僕に座って。お変わりだってたくさんあるんだから、慌てずゆっくり食べて大丈夫だよ」
「うん! ありがとう、レヴィアタン!」

果汁に濡れた唇からは、甘い林檎の香りをまとった僕の名前。
そう。
僕の名前は“レヴィアタン”。
考古学者の父親が息子につけたのは、神話に出てくるサタンの使徒のものだった。
レヴィアタンは、嫉妬を司る悪魔の名前だ。
それは、今は別れた僕の母への……嫉妬深い妻へのあてつけで選んだ名だった。



「ねぇ、レヴィアタン」

可愛いらしい歯形のついた林檎を手に、イブが言った。

「イブは、レヴィアタンが好きよ! 明日も明後日も一緒に遊びましょうね!」

イブは、僕が好きだと毎日言ってくれる。
この少女の想いは透明で、裏表の無い純粋な“好き”という気持ちだ。
そんな君の“好き”に、僕は答える。

「僕も君が好きだよ」

ありったけの愛を込めて、僕は言うんだ。
明日も、明後日も……これから、ずっと。

「大好きだよ、イブ」

イブ、イブ。
僕のイブ。
今日から此処は、僕と君だけの<楽園>だ。


Copyright 2013 Amayatudo. All Rights Reserved.